第4号 98年夏号


注)このページは1998年夏に作成、会員に郵送された会報をホームページ用に編集し掲載したものである。

『SKI SNOWBIRD!』

会員 海部 美知


こうなるはずだったんですよね?
Photo by Utah Chember of Commerce
 次の冬季オリンピックはソルトレーク・シティ、と聞くたびに、あの恐怖の日々のことを思い出します。スノーバードにスキーに行ったクリスマス休暇のことを....

 あれは、もう4〜5年も前のことでした。「氷、雨、ベタベタ雪、狭いトレール、 寒くて暗い灰色の空」の東海岸スキーばかりの私たちは、たまには豪勢に「太陽、サラサラ雪、広い斜面、暖かくて明るい青い空」のロッキー方面で滑ってみたいとあこがれ、ユタのスノーバードに出かけることにしたのでした。
コロラドよりもユタの方が、スキー場がよい割に安い、ということでユタにしたのです。休みはちょうど一週間しか取れないので便利な方がよいし、たまのことだから奮発しようと、スキー場の中にある一番近くて一番高級なホテルに泊まり、あまり動き回らないからレンタカーは普通の車、ということにしたのですが、これがすべての間違いの始まりだったのです....



スノーバードに到着


ラクジュアリー??
 亭主と私は、夕方ソルトレーク・シティに飛行機で着きました。車で山をのぼっていくと、巨大な岩が縦に地面につきささっているような、雄大な景色です。100年前、幌馬車で東からやってきた人たちは、一体どうやってこの山を越えたのだろう、と不思議になります。

 ホテルに着いたのはもう夜でした。東との時差もあり、バーで軽い物を食べてちょっと飲んで済ませよう、ということになり、ホテルのバーでビールやカクテルを飲みました。さて、部屋に帰ろうと立ち上がったところ、私はいきなり立ち眩み、頭がクラクラしてしゃがみこんでしまいました。そういえば、メキシコでテキーラを飲み過ぎ、薄い空気の中で悪酔いして、翌日空港の免税店で酒の顔を見ただけで気持ち悪くなったことがあったっけ。スノーバードが相当の高地だということを全く考えてもいなかったのでした。

 それでも、一晩寝て起きたらリフレッシュ、早速スキーです。その日は天気がよく、あこがれの「日の光の中でのスキー」ができました。リフトを降りたところに、「初心者コース」「中級コース」などと、日本語の看板があるのにビックリ。当時、日本にまだバブルの名残のあった頃、日本人スキーヤーは、高くて狭くて混んだ日本のスキー場を脱出し、海外に出かけるのが流行っていたのでした。ところが、その看板は必ずしも正確ではなく、かえって迷惑という代物でした。

 当時、夫婦そろって山田師範の厳しい指導の下、モーグルに凝っていた私たちには、あまりに平らな斜面はちょっと物足りなく感じるときもありましたが、あちこち滑るうちにモーグル用の斜面も発見。噂の「一番傾斜のきついトレール」は、まるで直角に落ちているようでビビリまくってしまい、思わずあとずさりしてこの日は挑戦できませんでした。

 夕方ホテルで食事をして、その後屋上の大きなジャクージで皆ビールを飲みながら大騒ぎ。暗い中に真っ白なロッキーの山々がぼうっと浮かび、星空に湯気があがり、露天風呂気分は最高。あー、あこがれのロッキーのスキーだぁ!



空には雲、地には日本人

 早朝、遠くで「パーン」と爆発するような乾いた音に気がつきました。調べてみると、毎日わざと雪崩の起きそうなところに弾丸を打ち込み、人のいないうちに人工雪崩を起こして危険を避けているとか。雪崩のことを英語で「アバランチ」というのだ、と覚えました。なんせ、東海岸では全く縁がない概念なので....

 その日は曇っていました。下の方の斜面ではあまり感じませんでしたが、山の上の方は強風で、頂上に行くゴンドラはその日は止まっていました。仕方なく、山の中腹くらいまでのところで、あちこち滑りました。カフェテリアで昼食を食べていると、確かに日本から来たスキーヤーがたくさんいます。日本人は、色鮮やかなきれいなウェアを着ているのですぐにわかります。繊維協定のせいで、アメリカには日本のウェアが輸入されていません。アメリカのスキーウェアはくすんだ暗い色で、プリントのない無地の生地を縫い合わせて模様にしているものばかりで、ごわごわしてい重く、それで値段はそれほど安くないし、まるで昔の共産圏。私たちも、日本に行ったときに日本のものを買ってきました。

 ホテルに帰ると、ロビーに「全日空ツアーデスク」が出ていました。そこに座っているのは、日本人でなく地元のアメリカ人。ああ、そういえばユタといえばモルモン教、世界各地に宣教師をたくさん派遣していて、日本語ペラペラのアメリカ人といえばモルモン教だったもんね。その強みを活かして、日本からの観光客誘致に力を入れているわけだ。そういえば、ホテルのレストランにも寿司バーがあったっけ。今日の夕食は、お寿司にしよう、と思ったのでした。でもここは山の中、寿司のネタは悪くなったりしてないかな、などとちょっと心配しましたが、いまどき日本だって寿司ネタは冷凍で海外から輸入するんだから、別にどうってことないよ、という結論に達しました。



恐怖の寿司


スノーバートスキー場のトラム
 寿司のカウンターは、メイン・ダイニングの入り口にあり、けっこう綺麗です。 中にいるのはアメリカ人のにーちゃん。一応すし職人の着るものは着て、はちまきはしていましたが、ふと見るとオーブントースターにはピザの食いかけが...やや不安に襲われつつ、注文しようとすると、注文票を渡されて、欲しい物に印を付けろと言われました。全く日本語はできないけど、陽気なにーちゃんです。

 いくつかに丸をつけて渡すと、腕まくりをして両手をすし飯の中につっこみ、それぞれの手で一握りのごはんをぎゅっとつかみ、それをまな板の上におくと、粘土細工をするようにまな板の上で成形を始めました。「げ・げーっ!!」思わず亭主と私は顔を見合わせました。さて、彼はそれが終わると、おもむろにネタケースの中からマグロをひとかたまり出し、包丁で切り始めましたが、切れないアメリカの家庭用包丁で、ぎこぎこと切るうちにマグロはぼろぼろ。もちろん、薄くなど切れないから、厚さ1センチほどの塊になります。それを粘土細工のごはんの上に乗せると、細く切った海苔でベルトをしてなんとか動かないように止め、はい、出来上がり。ぼーぜんとする私たちに、陽気なにーちゃんは、「ボクは寿司の作り方を日本人に習ったんだ。え?いや、寿司職人じゃないよ、その人は。近所の親切な日本人なんだ。まだ修行中だから、何かアドバイスがあったら、どんどん言ってくれよ。」ってな調子なので、なんだか文句を言う気力がありません。

 握りはもう不安なので、それでは鉄火巻を作ってくれ、と頼みました。「オー ケー。」と彼は巻簾を出してきて、海苔をそれに乗せました。ま、ここまではよし。すると、彼はその海苔の上にめいっぱいごはんを乗せました。「君たちはどこから来たの?え?ニューヨーク?ニューヨークには寿司の店がいっぱいあるんだろ。でも、こんなに大盛り(generous)な寿司はどこも出さないだろ?えへへ。」と自慢しながら、その上に刻んだマグロをまためいっぱい乗せました。よいしょ、とそれを巻簾で二つ折りにすると、当然中身が多すぎて海苔からごはんがはみ出します。それを無理矢理押し込んで、はい、出来上がり。

 彼は、スキーをしたくてここにアルバイトの口を見つけたにーちゃんなのでした。どっと食欲がなくなった私たちは、早々に寿司バーを切り上げることにしました。



ソルトレークの街へ


クリスマス時は美しい!
Photo by Utah Chember of Commerce
 2日目からあと、天気はどんどん悪くなるばかり。翌日からは大雪が降り出し、 相変わらず山の上の方は閉鎖されたまま。食事はホテルとスキー場でしか食べられないので、そろそろ飽きてきます。スキー場の中に一応中華と銘打った店があるのですが、ニューヨークで食べ慣れた中国人によるアメリカ人のための中華とは違う、アメリカ料理の変形のような中華でおいしくありません。天候が悪いために同じ所でしか滑ることができず、薄い空気の中でスキーもちょっと疲れてきました。

 それで、週の中頃の一日、スキーを休んでソルトレークの街に出ることにしました。ごはんが食べたかったので、ホテルのコンセルジュに中華料理の店を教えてもらいました。
街ではモルモン教の総本山(正確には山ではなく、単なる巨大な教会とその付属施設)を見学しました。確かに大きな教会ですが、バチカンのように美術品があるわけでもなく、比叡山のように歴史があるわけでもなく、ざっと見て回っておしまい。
でも、世界各地から信徒が来ているようでした。あとで聞いた話ですが、モルモン教の教祖はブリガム・ヤングという人で、100年ちょっと前に迫害を逃れてこの地にやってきて、ソルトレークの街を作ったそうですが、フットボールのサンフランシスコ49ersのクオーターバック、スティーブ・ヤングはその曾孫なのだそうです。

 昼食にホテルで教えてもらった中華の店に行くと、そこはショッピング・モールの中にありました。
最初にホット・アンド・サワー・スープ(醤油味のちょっと酸っぱいスープ)が出てきましたが、あまりに濃くてドロドロで、スープというよりはチップにつけて食べるディップのようで、食べられたものではありません。そのあと出てきた食事も、どれもこれでもかというほど味が濃く、「ソルトレークというのは湖だけじゃなかった、これじゃソルトフードだぁ!!」ここも、ほうほうの体で逃げ出さざるを得ませんでした。



耐える日々

 それから、もう食べることは耐えること、の毎日でした。基本的においしいものを食べることが大好きな私たち夫婦は、食事の時間が近づくたびに悲しくなりました。
大晦日は、ピザを部屋に注文して半泣きしながらビールで流し込みました。ホテルと棟続きになっているスキー場のカフェテリアの地下の食料品店で、お菓子やカップ麺を買ってきて飢えをしのいだこともありました。もう、とにかく食べることは忘れて、スキーに専念するしかないのだ、と言い聞かせながら...

 しかし、スキーのほうも、ずっと悪天候が続き、最後の日にようやく一番上までゴンドラで行けるようになるまで、我慢の毎日。最後の日も、かなりの強風で雪が降っていましたが、その中をなんとか滑り、例の一番きつい斜面の入り口まで来ました。
2人ほど、斜面をのぞきこんでタイミングをはかっています。着ているものなどもバッチリ決めたアメリカ人で、「きっとうまいんだろうな。」と期待して見ていましたが、滑り出したらボーゲンなのです。亭主とふたりで「ガクッ!」。
そういえば、このスキー場であまり上手い人を見かけていません。クリスマス休暇で、たまにしか滑らない人がたくさん来ているせいかもしれませんが、いつも行っているバーモント州のモーグルのメッカ、キリントンのように、競って滑っている常連みたいな人たちにはあまり出会いませんでした。
ま、とにかく、岩がところどころ出ているその斜面も滑り降り、ちょっとばかりエクストリーム・スキーの気分を味わいました。



終わりよければ...


空港とスキー場の位置関係
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Photo by Utah Chember of Commerce
 帰る日がやっとやってきました。その日は朝から雪が降っていましたが、車で出発すると途中で雪が豪雪に変わってきました。こちらは山を降りていく方なのでまだよいのですが、上りは大渋滞になっています。雪の量がハンパでなく、渋滞で5分止まっている間に10センチくらい車の上に雪がつもってしまう、というくらいのすごい雪です。車は普通の乗用車で、スパイクもチェーンもないので、運転している亭主は必死の形相です。そろそろと山を降り、街に近づいても、ハイウェイは厚い雪に覆われてつるつる滑ります。助手席の私も、どうすることもできません。地図を片手に、無事空港まで着くことを祈るばかり。モルモン教の神様でもなんでもいいから、助けてぇ!

 天気がよければ40分で着くところを、3時間ほどかかってようやく空港に着いてようやく安心。雪のため飛行機は出発が遅れ、スナック・コーナーでジュースを飲みながら外を見ていると、外で荷物の積み込みをやっている様子が見えます。スキーの板を積んだコンテナが、ずっと放置されて雪が降り積もっています。あれって、誰かがちゃんとあそこにあるってわかっているのかな??と少し不安になります。

 こういう不安というのは、的中するものです。夜中過ぎにようやくニューヨークのJFK空港に着くと、いくら待っても私のスキーが出てきません。亭主のは出てきたのですが、私のはあの放置されたコンテナの中にはいっていたのかも、とその光景が目の前に浮かんできます。紛失貨物の手続きを済ませて、夜中の3時頃家にたどり着くと、もうへとへとでした。幸い、スキーはその数日後に家に届けられたのでよかったのですが。



あとがき


2002年冬季オリンピック
 ここに書いたお話は、ぜーんぶホントの話です。オリンピックを前に、ソルトレークの街ではレストランの質の向上は少しは図られているかもしれませんし、日本語の看板は改善されているかもしれません。だから、今は違っている可能性もあり、これからユタへスキーに行かれる方のために果たして参考になるかどうかはわかりません。でも、一つだけ確かなことがあります。「私たちは、もう二度とスノーバードへは行かないぞ!!」



編集者コメント『ご苦労されましたね!』


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